02


場所は一転。飲み物を入れて仕方なくカラオケボックスへと戻った俺は大塚さんにかけたはずの電話に兄貴が出たことに首を傾げていた。

「なんで兄貴が…」

大塚さんといるのか。それもカラオケ店の場所を言ったらぶちりと通話は一方的に切られた。俺が家を出る時、兄貴はまだ家にいたはずだ。なのに、何故?

そう気をとられていた俺は、飲み物を取りに行ったままバックレるという逃走方法を見落としてもいた。その甘さが葉月が葉月たる所以でもあるのだが、本人にその自覚は全くといっていいほど無く。和巳がいれば詰めが甘いと言ったかも知れなかった。

「なぁなぁ、葉月君も一緒に歌おうぜ」

「今時の高校生ってなに歌ってんの?」

両脇を二人に固められ、茶髪の男の方が肩に腕を乗せて来る。

「ちょっとやめて下さい!」

近付いた距離で微かに臭うようになったアルコール臭。
この二人、強引に俺をカラオケに引っ張り込んだと思ったら酔っ払いだったのか。

「てかさ、なんで葉月君俺らに連絡してくれねぇの?」

「そうだぜ。待ってたのによう」

もう一方の黒髪の男が俺の頬に熱を持った掌で触れて来る。

「やめっ…、俺は女じゃねぇし!暑苦しい、離れろ!」

この酔っ払い二人組が!俺を何処かの女の人と間違えているのか。言動がいちいち怪しくて、距離が近い。

俺は敬語を投げ捨てて、どうするかと考え始めた。

もういっそのこと殴って、目を覚まさせてやればいいのか。とりあえず、俺は頬に手を滑らせてきた黒髪の男の手を掴んで自分から引き剥がし、抵抗する。

「俺もう帰ります!」

「えーっ、葉月ちゃんまで新堂みたいにつれない事言うなよ」

「入ったばっかじゃん。何か一曲ぐらい歌ってけよー」

ほらと言って、適当に選曲をされて流れ出した曲に、カラオケのマイクを口に押し付けられる。

「いや、だからっ!帰るって言ってんだろ!」

おしつけられたマイクが俺の声を拾って室内に響く。
その時、カラオケボックスの防音扉が外側から開けられたが、俺達はまったくそのことに気付かなかった。チャラチャラと流れる軽めのイントロに不似合いな低い声が部屋の中に落ちる。

「おい。何してやがんだ、てめぇら」

その声に俺は驚き、ばっと扉の方へ顔を向けた。

「兄貴!?」

同時に助かったと、縋るような眼差しでそこに立つ兄貴を見つめてしまった。普段から鋭い双眸を更に不機嫌そうに眇めて兄貴は俺の肩に腕を回していた茶髪の男と、俺に押しつけたマイクごと俺の手を掴む黒髪の男に目をやり、部屋の中を進んで来る。そして、

「おー、なに、新堂じゃん。お前の弟、言うこと聞いてくんねぇんだ…っ」

「うぉわっ!」

「こいつに触るんじゃねぇよ」

近くまで来た兄貴は容赦なく、俺の手を握っていた黒髪の男の頭を鷲掴みにすると力を入れて引き剥がす。もう一方の手で俺は兄貴に腕を掴まれてソファから立ち上がらさせられた。

「あ、兄貴…」

ちらりと見た兄貴の横顔は見た事も無いぐらいひやりと冷たく研ぎ澄まされていた。
男達へ向けられていた冷たい視線が俺の呼びかけで、俺へと向けられる。

「葉月」

すっと動いた視線は僅かに緩み、俺を捉える。

「お前は帰れ」

追い払うように扉の方へ向けて背中を押される。
いつもなら理不尽だと感じる、突き放すような行為が優しく思える。

「でも、兄貴は。この人達は?」

「お前には関係ねぇ」

早く出て行けと、心配する声はいつも通りの声音に切り捨てられる。

「遊びたいなら、俺が遊んでやるぜ」

部屋を出る瞬間、背中で聞いた声は恐ろしく低い低音だった。

そして、俺は思い出す。

前にも、俺がまだ小学校低学年だった頃、俺の前に立つ兄貴の背中を見たことがあった。

『俺の弟に何してやがる』

理由は忘れてしまった。けれど、きっと些細なことであったと思う。
俺は一時期クラスメイトの少年たち三人組に嫌がらせを受けていたことがあった。

放課後、公園の砂場に突き飛ばされ、砂まみれになる。
悔しくて、痛くて。俺を突き飛ばした相手の顔面に握りしめた砂粒をぶつけ返してやった。そうしたら、今度は他の少年が俺の髪の毛を引っ張り、それがまた痛くて、俺は適当に腕を振り回した。偶然、その腕が俺の髪を引っ張っていた少年の顔にあたり、怒りとその痛みで顔を真っ赤にした少年は俺を再び砂場の中に突き飛ばした。それからは頭に血を昇らせた少年たちに殴る蹴るの暴行を加えられ、俺も反抗したが数には勝てなかった。三対一だったし、相手はお山の大将とその子分二人みたいな奴で。その時の俺はまだ平均的な小学生としては小柄な方であったし、喧嘩などからっきしであった。

『うぅ…っ、くそっ』

『お前が調子に乗って、ミホちゃんに話しかけるからだぞ!』

『そうだ、そうだ!ちびのくせに!』

ミホと言うのはクラスメイトの女の子の一人であったが、俺には何を言われいるのかよく分からなかった。何故、クラスメイトに話しかけてはいけないのか。

頬をぶたれて、涙が零れそうになったが、俺はこんな奴らの前で泣くものかとぐっと唇を噛んで耐えた。その時だ、いつの間にか公園の入口に立っていた兄貴が、今より少し高い声で俺達に声を掛けてきた。

『聞こえなかったのか?何してんだって聞いてんだよ』

兄貴は酷く怒った様子で俺達のいる砂場に近付いて来た。

『なにって、こいつが…』

『誰だよ、お前』

『関係ない奴はあっちに行ってろよ』

砂まみれの上に叩かれた頬は赤くなっていて、殴られたお腹や蹴られた足は痛くて、俺は本当は泣く寸前だった。

兄貴は俺を囲った三人組を睨み付けると、お前らがやったんだなと確認するように呟き、それからはあっという間の出来事だった。
三人組が俺と同じ低学年の少年であることも構わず、俺がやられたのと同じように三人組の頬を張ると、言い訳もさせずにそのお腹を殴った。

『ぐふっ…』

『がはっ…』

『ぶふっ…』

痛い、痛いようと、泣き始めた三人組にはもう見向きもせずに兄貴は砂場に座り込んだ俺の腕を無言で掴み上げる。

『兄ちゃん…』

ぐすっと鼻を啜って、掴まれた腕の強さに安心して涙が零れ落ちた。

『帰るぞ、葉月』

『うんっ』

そのまま俺の腕を引き、歩き出した兄貴は俺が後ろでぼろぼろと泣いても振り返らなかった。ただ、歩く速度はゆっくりで、腕を掴んでいた手はいつの間にかしっかりと俺の手と繋がれていた。涙で見えなくなりそうな視界の中にはずっと兄貴の背中があった。

それからしばらくはまた、俺は兄貴の後をついて回っていた。
あの三人組も不思議とそれからは俺を避けるようになって、いつしか平和な日々が戻ってきていたので、今まですっかりあの時の出来事を忘れていた。

俺は兄貴に言われた通り、カラオケ店を後にして、家へと帰ってそんな過去の出来事を思い出していた。

兄貴は昔から俺の兄貴だった。
そう、どんなに理不尽な兄貴だと思うことがあっても、俺を助けてくれるヒーローみたいな存在で。俺にとっては自慢の出来る格好良い兄貴だった。

「兄ちゃん…」

どうしよう。
そこまで意識して、とくりと震えた鼓動に頬が熱くなる。
とくとくと静かに早くリズムを刻み始めた鼓動に俺は息苦しさのようなものを覚えて、二段ベッドの下で膝を抱えるように座り込んでいた。



(どうしよう。なんだこれ?)
(顔が赤いな。熱でもあるのか、…葉月)
(っ、なんでもないから!ほっといて!)
(人が心配してやれば、お前はまた口の聞き方を教えてやろうか)

End.



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